■大島梨の始まり

昔から、下大島地区は旧利根川の河床で「石っ河原」といわれるような農業には不利な土地でした。
この地にあって、農家に生まれた関口長左衛門は文政13年(1830年)に、那波候の領内、五料(現群馬県佐波郡玉村町五料)の伊与野清次郎から「梨木の伝」を入手し梨栽培を始めました。
長左衛門の梨園は成果を上げ、村民はそれに続きました。
こうして名産・大島梨への道が切り開かれたのです。



関口長左衛門の功績

【栽培技術を全国に普及】
関口翁はその後も栽培法に研究を重ね、枝を八方に張らせる「棚作り」の方法を考案し、品質の向上と収穫量の増加を図りました。
こうした努力により梨栽培は隣村にも普及し、大島梨の名は遠くまで知れ渡りました。これが「上州梨の発達は実に関口翁の賜なり」と言われている所以です。

翁が梨を前橋藩主松平公に献上したところ、大いに喜ばれ、松平公はその後将軍家に献上し面目をほどこしました。また他藩へ贈り大いに賞賛されたといいます。

安政6年(1859年)には伊勢の国・津藩(三重県)藩主藤堂候に召され数千畝の梨園を開きました。
翌年、万延元年(1860年)には備中・足守藩(岡山県)に行き、栽培技術を普及しました。
その他、新潟などにも赴いて栽培技術を広め、梨栽培が本格的に普及し、定着することとなったのです。



関口長左衛門(1808〜1872)

江戸時代後期の園芸家。
文化5年生まれ。生地上野(こうずけ)下大島村で砂地でも生育に適する梨の栽培に成功。梨の栽培を広め、後の名産「大島梨」の基礎を作った。
明治5年1月死去。65歳。
号は梨翁(りしょう)。

○津藩主 藤堂候との逸話
津藩主に梨栽培伝授のために招聘された折、連日の労をねぎらう意味で殿様が競馬を催され、陪観を許された長左衛門は黒の紋服に綸子の白襟の第一装で参列した。
何気なく殿様のお支度を拝見すると自分の服装と同じであった。
三十万石の殿様でさえ綸子の襟であるのに、平民の私が同様の支度であるとは畏れ多いと頭が下がり、以降固く身の程を弁え諸事倹約して自らを戒めたという。
 

  


■明治期の大島梨

明治5年(1872年)に関口翁が病死した後は、子・又次郎、孫・長太郎が後を継ぎました。

明治10年、西南戦争が起こった時には、大島梨数十駄(一駄=約135kg)を贈ったところ、大変に喜ばれ、関口翁の名と梨が西国にも広まりました。

しかし、明治18年(1885年)、赤星病・黒星病が大発生し、「ほとんど全滅の危機」に遭遇しました。
記録によると、被害甚大なる種類は、赤龍・泡雪・朝鮮・平四分・晩六月、等の記述があります。
この被害が明治28年までの11年間続き、その予防に施すべき策も絶え、村民の全てが樹を順次伐採することとなりました。


関口長太郎の功績

【赤星病・黒星病の克服】
長太郎は、この困難を克服しなんとか復興させようと11年間にわたり駆除法を研究しました。
この時、比較的被害の少なかった品種は、長十郎・赤穂・早稲赤などであったといいます。

その後、研究のかいあり、しだいに被害程度も薄らいできたので、長太郎は品種の改良や栽培法の研究に努めました。
明治43年に開催された共進会の出展資料等によれば、品種は、早生赤・赤龍等、販路は、東京・長野・茨城の記載があります。

このような、長太郎の熱意と努力が無ければ、大島梨は絶滅していたと云われています。





下大嶋 戸長 関口又次郎印
(関口修一氏保管)


関口長太郎の研究の成果
関口長太郎の経験によれば、四月の開花、五月の結実の時期の虫害、年間の干ばつ・湿気が最も害をなすため、これらの予防が大切であり、三月は根周りの手入れ、剪定、棚の修理が必要であり、万一黒星・赤星等の害虫発生※1 の場合はボルドー液を散布する。貝殻虫には硫黄と生石灰を溶解し水を混ぜたものを用い、その駆除は毎年三月上中旬に行う、ということであった。

製造方法の項には、苗木を二間四方に定植して高さ五尺二寸くらいのところから枝をたわめ、竹で架を作って剪定、害虫駆除の便を供え、肥料は魚肥・油粕・米ぬか・硫酸加里・人糞等を施したと記されている。

※1 当時は黒星・赤星病は害虫被害と思われていたと考えられます。


  


■大正、昭和初期の大島梨

大正6年の大島梨(勢多郡木瀬村)の状況は、梨園が23町(1町=9917u)あり、一戸当たりの栽培面積は平均2反歩(10反=1町)でした。
梨栽培の一層の改良進歩を図るため、村内に梨子奨励会を設置し、種苗の改良、栽培の研究に努め、その会員は50名であったといいます。
品種については、市島・二十世紀・明月・眞鍮・鴨梨子・大白・長十郎・早稲赤・三吉・独逸梨、囲い梨では赤龍等でした。

大正12年の関東大震災では大島梨栽培家連合として生果4500kgを寄贈したところ、東京市長から感謝状が贈られました。


昭和4年の群馬県発行『群馬県副業1班』によると、「本県果実の主なるものは梨にして、(略)関口長左衛門氏により栽培を創始され、(略)販路は主として県内及び栃木県にして東京市場については僅少なり、その他碓氷郡里見村、多野郡平井村、邑楽郡千江田村等に良品を産し、品種は眞鍮・長十郎・早生赤もっとも多し」とあります。





前橋市下大島町 来迎寺にある
関口長左衛門 梨昌翁の石碑



  


■昭和後期から平成の大島梨

戦争による梨生産の落ち込みは大きく、その回復にも時間がかかりました。
昭和20年代後半の生産量は昭和10年代に比べて30%にしかなりませんでした。
しかし、昭和30年代には戦前水準の倍の生産量となり、更にめざましく増加していくこととなります。
販売については、昭和30年までにこれまでの共撰共販体制から、「個人出荷が多角経営を安定化し粗収益をより高める」として共同選果個人出荷に変わっていきました。



昭和60年ころから販売にも大きな変化が現れます。
宅配による梨の贈答が一般化すると、新鮮で美味しいふるさとの味として喜ばれ、しだいに宅配便の利用者が固定客化し、生産者直送の贈答品としての販売が中心となりました。

平成になってからは、販売のほとんどが販売店(梨店)での販売・地方発送となっています。
現在、下大島果樹組合の梨生産農家は46戸、栽培面積は20haです。



現在の下大島のようす




夏になると駒形バイパスに
たくさんの売店がオープンします


  


参考資料

「木瀬村誌」
「梨の里郷土史 下大島の歩み」
永明小学校副読本「わたしたちの永明」
「関口梨昌翁略伝」